「癌になってよかったよ。」苦しみの原因が、消え失せた瞬間。
「癌になって、よかったよ。」
質問;あなたは、癌という病気にかかりたいですか?
こんにちは、
新年度二回目の週の始まりです。
先日のように、
ひどく寒かったり、風が強かったり
お花見には、ちょっと不都合ですが、
少しずつ季節を楽しみたいです。
そして、
今年のGWは個人的にのんびりしようと企んでいます。
最近ばたばたしていますが、
基本的にグーダラな人間で、
本当はずっとのんびりしたい。
失礼しました、、。
突然ですが、
遠藤周作の「沈黙」という小説をご存知ですか?
私が、その小説を読んだのは、
中学生の頃であったと思います。
それ以降読み返していないので、
相当の誤解がある事と思いますが、
その当時の理解としましては、
信仰しても、信仰しても、
苦しみから解放してくれない神と人々との
関係性の世界観という印象があったのを
おぼろげながらに覚えております。
昔の記憶のため、作品とは全く無関係に
私のその作品への世界観に対しての
感想と受け取っていただきたいのですが、
今の私は、
なにか、
苦しい状況に陥った時、
そもそも自分自身が、
何か物事の捉え方がずれているのではないか、と
まず考えます。
私の世界観の中での、
その小説の信者は
「信仰すれば神に救われる。奇跡が起こる。」
このように考えているわけです。
この文章の主語は、信者自身です。
正しい行いをすれば、神(本質的なもの)が、
自分に注意を向けてくれ
助けてくれる。
さらに、奇跡を起こしてくれる。
これは、思考の中心が結局は、
自分自身(エゴ)なのです。
地球上あるいは、
この宇宙は、
物理法則をはじめとした
「法則」で動いている。
本質的な法則があると
私自身は、感じています。
その、本質的な法則が、
神と呼ばれるものであるとするなら、
極端な話、
例えば、自分自身、非常に精進すれば、
「リンゴが、木から空へ浮き上がっていく。」
と本気で信じているとすれば
滑稽ではないでしょうか?
これに近い事が、
「沈黙」で描かれている、
悲劇に対して、
奇跡を信じる信者の考えだと感じます。
その、
「沈黙」のなかでもそうですが、
現実世界のなかで、人が苦しむとき、
私は、ある一定の共通点があるのでは、と感じます。
それは、つまり
苦しむときは、
思考の主語が、自分自身の時。
言い換えますと
「エゴ」が中心となっている状態のときでは、
ないでしょうか?
実は、私は人間にとって
「エゴ」は非常に重要な、
大切な長所となる
能力と、とらえていますが、
思考が「エゴ」中心となると、
長所が途端に短所になります。
ここで、最初の質問に戻ります。
「癌という病気になりたいですか?」
こんな質問すると、
馬鹿にしていると勘違いされるかもしれません。
しかし
もちろん私も含めて
ほとんど全ての方は、
癌になりたくないと回答されるでしょう。
しかし、
現実に癌を発病するという、
追い込まれた、ぎりぎりの状況を経て
臨床現場で
ある一人の患者さんから、
「癌になって、よかったよ。」
と信じられない言葉を頂きました。
その、医療現場では、
何が起こっていたのでしょうか?
実は、その患者さんは、
追い込まれて追い込まれて、
様々な思考の葛藤、
悪戦苦闘をへて
ある一つの意識に至ります。
それが、
「すべてをゆだねる意識。」
でした。
これは、あきらめた状態でしょうか?
否。
あきらめでは、実はないのです。
それは、
エゴを通して、本質の流れに、身を任せる。
本質の流れを、エゴを通して意識する。
きわめてはっきりとすべてが
冴え渡った覚醒された状況なのです。
エゴと自分の精神、肉体、魂、縁、
それらが葛藤して
戦い合っていた状態から、
それぞれの、可能性に気が付き
それぞれ、
お互いに自然に感謝の念が生まれる状態。
結局、
自分の苦しい状況それは、
振り返っていただいて
分析するとご理解いただけますが、
ご自分のエゴの意識が、
「中心」になっているのです。
そして、他の本質的なものと
戦い合っている(葛藤している)
状態なのです。
エゴは、
本質を意識して感じるための能力「道具」です。
使い方を間違えると
非常に痛い目にあいます。
私は、無宗教ですが、
仮に神という存在がいたとして、
神からみれば、
人間は、宇宙のほんの一部。
むしろ宇宙の秩序を乱す、
地球を痛めつけている、
毒性の強い細菌のような存在かもしれません。
神を信じれば、救われると考えることは、
細菌さんの世界のなかで、医者を信じれば、
増殖を促進させてくれると信じている
細菌さんがいることと似通っていて、
分かってしまうととても滑稽です。
つまり、
神が助けてくれるなんて非常に、
高慢で身の程をわきまえない、
宇宙全体からみれば、
KY(空気読めない)思考でしょう。
そうではなく、
エゴを中心におくのではなく、
そっとそばにおき、
自分の中心から外し、
宇宙のながれ、地球の鼓動、
自然の呼吸、自分自身の体の感覚、
をゆっくり「感じて」
私たち自身から
「本質の原則に歩み寄る」
謙虚さがあれば、
どんなに気持ちよい状態に満たされる事か。
エゴは、
自然の呼吸を
「意識」するときに使う道具なのです。
ゴエンカ氏の
ヴィパッサナー瞑想入門(春秋社)という書の中に、
命の終わりが迫る修行僧に対して、
ブッタが、
「本質」を 、ひと言で
伝えなくてはいけない状況に追い込まれた時に、
発した言葉が描かれていました。
「見るときには、ただ見る。
聞くときには、ただ聞く。
嗅ぐとき、味わうとき、触れるとき、ただ嗅ぎ、味わい、触れる。
そして知るときには、ただ知るのです。」
六つの感覚器官のいずれかに接触があるとき、
いかなる評価も偏見もあってはならない。
偏見をもってよいわるい価値判断をはじめると、
前につくった盲目的な反応の影響をうけ、物事をゆがめてみてしまう。
心を条件付けから解き放つために、
過去の反応でもって評価することをやめ、
ただただ、きづいていることである。
以上引用 ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 P165
自分は宇宙全体の一部であり、
その宇宙全体の「流れ」を、
地球の鼓動、
自然の呼吸、
自分自身の体の「感覚」を通して、
感じ、それにゆだねる事で、
(それが、束縛や制限と誤解してしまいがちではありますが、)
人間としての自分の可能性は、
無限大になり、
思い通りという言葉がふさわしい状態にいたるものだと私は、感じます。
今日も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
治療範囲 | 保険点数 | 自己負担割合 3割 | 自己負担割合 1割 |
身体の深部にある臓器 | 9,000点 | 27,000円 | 9,000円 |
身体の表面に近い臓器 | 6,000点 | 18,000円 | 6,000円 |
加藤先生
私の話になりますが、日常的に仕事や学校で人の輪の中にいることが多いと、無意識にエゴ(自我)を抑制してしまうこともあり、本当はこんなはずではなかったのに…というような経験も少なくはないと思いました。
エゴの意識は抑制し過ぎて離し過ぎてしまうことも自分にとって苦しくなると感じます。
先生のブログを読ませて頂き、すべて自然の流れに身を任せ、ありのままに感受出来れば、とても楽になるなと思いました。
時には自然の沢山ある非日常的な場所に行ってゆっくり身体を感じ、心身のバランスをとりながらのリフレッシュも大切だと思いました。
そうすることで自然を意識し、自然に感謝できればと思います。
向日葵さん
貴重なご経験教えていただきありがとうございます。エゴを抑制しているとお感じになっている状況ももしかしたらエゴによるものかもしれません。
草木はありのままで、ときどきいろんなことを教えてくれますね。
拝見していて、とても苦しく感じました。
自我というエゴから逃げられないのが人間なのに、
支配されていると言っても過言ではないのに
横に置く勇気、覚悟に至るまで、どれ程悩みぬく必要があるのか。
苦しみ抜くから、エゴから解放されるのか?
そんな思いに胸が締め付けられます。
みんみさん ありがとうございます。エゴを否定せずそばに置くことは、ほっとする楽な作業です。私は苦しい時は、自分がなにか「勘違いしているのではないか」と考えます。本質的な行動ができているときは、本当に楽で気持ちが良く、しぜんに感謝の気持ちがわいてくる感じがします。呼吸をするだけで、気持ちが良いものです。
エゴは、本質を意識して感じるための能力「道具」なんですね。その使い方次第で痛い目にあったりもしてしまうことは避けていきたいです。エゴをそばに置いて謙虚さを持っていくことを心がけていきたいです。
「癌になってよかった」と言えるまでに、どれだけの苦悶や葛藤があったかは想像がつきませんが、それくらいの経験をしないと到達できない心理状態なのでしょうか。
これはひとつの例ですが、他のこともエゴの扱いや使い方によってはもっと楽になれるはずなのかと思うと、少し明るい気持ちになれそうな気がします。
エゴは道具ならハサミのように使い方ひとつで大きく違ってくると捉えると自分の行動に活用出来るように思いました。
さとも様 ありがとうございます。おっしゃるようにエゴを道具としてきちんと意識していきたいです!
さとも様 ありがとうございます。なるほど!
エゴを自分の一部として、捉えるのは難しいのかなと思いますが、自然に委ねながら、前に進んでいきたいです。
癌になってよかった。と自分だったら言えるのだろうか。いや、言えないのではないか。絶望的になり明日からどう生きようか、生きていても無駄ではないか。などと、悲観的に考えてしまいそうです。「癌になってよかったよ。」と言えるまでには、とてつもない葛藤があったのではないかと思います。それを乗り越え、その先にあったのは、すべてをゆだねること。悪あがきすることなく、流れに身を任せる。こうすることで、自分らしくいられるということを、病気になることで身をもって知ることができたのではないかと思います。病気にならずとも、そんな生き方ができるようにしていけたらと思いました。