99.9%の日本人が知らない「聴く」という言葉に古来日本人が託した真意
こんにちは、今日は七夕です。
相武台では、夕方になり、すこし雨があがってきました。
どこか、しっとりとお願いごとをする感じで、
七夕の日は、毎年楽しみです。
風鈴、すだれ、浴衣の女性も、ちらほら、
街でみられるようになりました。
七夕の時だけでなく、
日本人は昔から暑さ対策で、様々な工夫をされてきました。
今年の夏は、安易に、電気に頼るだけでなく、
日本人の古来からの、工夫を見直してみる事も、
良いかもしれません。
なにより、工夫や手間には、「愛」がこもっていますので、、
ちなみに、
私は、今年は診察時の部屋履きに、
足裏が気持ちよくて、涼しい
わら草履を、試してみたいです。
さて、当院では、以前にもご紹介しましたが、
朝のミーティング時に、
2分ほどで、各自が勉強した事を、発表し、
職員みんなで、シェアするという、勉強方法を行っております。
そこで、
「コーチング」といって、
カウンセリングの方法を勉強してきた
職員の発表がありました。
その職員曰く、
「クライアント(お客さん、患者さん)の話を、
しっかり聴いてあげましょう。
聴くとは、文字にあるように、
耳と、目と心をつかって話を聴いてあげることです。」
漠然と、なるほどと思ってしまいましたが、
その後も、その職員から
聴く事に関して説明が続きました。
しかし、なかなかはっきりイメージがわきません。
後の事が理解できない場合、
はじめの段階でうまく理解ができていない可能性があります。
私は、勉強した情報を、
当院の方向性に照らし合わせます。
当院の方向性、
「体の声を聴き続ける。そうすれば健康への道が拓ける。」
私は、その職員に問いました。
「体の声を聴く。この時も、漢字は「聴く」ですが、
体の声も、目、耳、心、を使って聴くのですか?」
その職員は「そうです。」と答えました。
「では、患者さんに、
「目を閉じて、ゆびもみ、や肩まわしをするといいですよ。」と説明していますが、
この説明は、間違っているのでしょうか?
目をあけてしていただいたほうが体の声は聴けますか?」
この質問に、その職員は、つまってしまいました。
うまく、理論が回らない、
その時は、なにか根本的に勘違いしている可能性を考えます。
具体的な事例で考えてみます。
以前に荒れた中学校をたて直した
大塚貢先生(今後チャンネルSご出演予定)
から伺ったお話ですが、大塚先生が赴任された当初、
教室の中を、バイクで走ったり、いじめがあったり、
生徒が近所へ空き巣に入ったり、校内は荒れに荒れていました。
そこまで混乱していた場合に、目、耳、心を使って、
生徒の話を聴くと、
実は大塚先生ご自身が混乱してしまって、
物事がうまくいかなかったかもしれません。
(実際の顛末は、今後チャンネルSで公開いたします。)
また、
ものすごい亭主関白の方がいるとします。
厳しい旦那さんです。
奥さんが、皆さんのコーチングのクライアントで、やってきました。
旦那さんが理不尽に厳しいという話を延々にされます。
その話の、流れでいくと
結局、奥さんは、離婚する決断をするかもしれません。
奥さんの決断では、それが正しいかもしれません。
ただ、根本的に現状認識がまちがっているとしたら、、、
その奥さんの決断は、後悔を招く可能性があります。
長年の関係性のなかで、
表面上は献身的な妻の役割を果たしているものの、
無意識のうちに旦那さんへの心を、閉ざしてしまっているかもしれません。
その心の断絶からくる不足感に、旦那さんは苛まされ、
また逆に奥さんへ強くあたってしまう、
そのような、悪循環の現状があるかもしれません。
目で見ると、耳で聞くとどうしても表面的な現状認識に、なりかねません。
染織家で人間国宝の志村ふくみさんは、
戦後、世間の目が非常に厳しい時代、
染色に対しての情熱が押さえきれず、
自分の産んだ幼い子供たちの育児を放棄し
染織の道へ進む決断をしました。
その決断する前、皆さんのコーチングを受けに
志村さんが、来られた場合を想像してみてください。
目と耳と心で聴く、コーチングでは良い悪いの判断はしない事が
原則だとしても、小さな幼子の境遇を聴いて心で感じた場合
どのような、反応を皆さんはするでしょうか?
明らかな、アドバイスをしないまでも、
皆さんの心の反応を隠すことはできません。
仏教の教えを開いたブッタは、
若いころ、
自分の奥さんとの間に子供ができた事実を知ると
子供に、障碍(ラーフラ、障害を意味する。)と名付けました。
「これから、家出をして、両親、妻子供、国民を捨てて、
王子の私が、修行の道に入るべきなのかどうか?」
もし、ブッタが、皆さんに相談にきた場合、
ブッタの話を、目と耳と心で話を聴きますか?
そうすると皆さんは、
その理不尽なブッタへの感情を隠すことはできないでしょう。
表面的な事を見て、表面的なことを聞き、
それを心で感じることは、現状認識を本質的なところにおいて
狂わせます。
子供が引きこもりや、あるいは家庭内暴力で悩む、
両親に関しても然りです。
人の話を聴くときには、
目と耳と心で聴きましょう。
(十四の心とも言われます。
つまり、
受容する心
共感する心
好意的な心
興味を示す心
肯定する心
優しい心
理解する心
ゆったりした心
誠実な心
先入観のない心
明るい心
公平な心
信頼の心
感謝の心)
といってその方法で、
人の話を聴くとうまくいかない。
では、どこが間違っているのでしょうか?
実は、「聴く。」言葉の捉え方が、
そもそも違うのではないでしょうか?
これは、私個人的な予想ですが、
古来日本人が「聴く。」という言葉に託した真意。
それは、
目、耳、心を 「閉じて」 聴くということでは、ないでしょうか?
実はこれは、非常に難しい実践です。
ただ、結論として私はこのように考えます。
この事実に気づかされた時、聴くことの本当の奥深さに驚愕しました。
まだまだ、道半ばです。
今後これを実証するようなエピソードがあれば、
少しずつ、皆さんに公開させていただきます。
今日は、禅問答の様なお話にお付き合いいただき本当にありがとうございました。
名言メモ フィラーレ 成瀬雅子さんより
I shut my eyes in order to see./ Paul Gauguin (私は、見るために目を閉じるのです。/ポール・ゴーギャン)
治療範囲 | 保険点数 | 自己負担割合 3割 | 自己負担割合 1割 |
身体の深部にある臓器 | 9,000点 | 27,000円 | 9,000円 |
身体の表面に近い臓器 | 6,000点 | 18,000円 | 6,000円 |
何かを本当に聴くには目を瞑らないといけないのではないかと思います。多分、目から雑音が入るからでしょう。「耳を澄ます」と言う状態は目を瞑っていることが多いように思います。目を瞑ると、今まで聞こえていなかった音が聴こえてくるのでしょう。天啓は目を瞑っているときに聴こえてくるのではないでしょうか。心の声もそうでしょう。
原享様 ありがとうございます。つむるとはこんな漢字を書くとは知りませんでした。瞑想のめいですね。なるほどそのように考えると言葉はつながっています。すごくわかりました。大変ありがとうございました。
コーチングとは難しいですね。確かに目、耳、心を使っても混乱してしまうことが多々現実にあるように感じます。
私も子供のことで色々考えてしまうことが多いので、目、耳、心を「閉じて」 聴くということは難しく、実践しようとしてもすぐできるものではないと思いました。14の心もできていないので、もっと深いものだと感じます。どうしたら、実践できるようになるか、私なりに問いかけていきたいと思いました。
ビオレ様 ありがとうございます。子供さんのこといろいろ考えられて尊敬いたします。もしかしたら育児は自分の一番の成長の手段かもしれませんね。たしかに、実際にはひどくむずかしいですね。頑張ります。
「耳と目と心を閉じて聴く」
一見、全てを閉ざして、何も受け入れない様にも感じられます。でも、そうすることで自分の固定観念や感情に振り回されずに相手の話を聴くことができるように思います。
色々な感情の無い心だからこそ、純粋に無条件に相手を受け入れられる気がします。
A様 ありがとうございます。色々経験する中で、固定観念や 習慣的な感情がでてくるのですね。新しい気づきでした。意識した純粋を目指したいです。示唆に富んだコメント大変ありがとうございました。
名言メモ フィラーレ 成瀬雅子さんより
I shut my eyes in order to see./ Paul Gauguin (私は、見るために目を閉じるのです。/ポール・ゴーギャン
なんだか(十四の心〜)からいまいちピンとこないのですが、つまり「考えるのではなく感じるのだ」ってことですか?
やっぱりブルース・リーの教えは偉大ですね!
通りすがりのポメラニアン様 コメントありがとうございます。最後まで読んでいただきありがとうございます。ブルース・リーは偉大ですね。ポメラニアン様は知識が広いです。勉強になりました。少しずつうまく言葉にできるように精進いたします。
ブログを拝見していて、本当に分からなくなりました。
相手のことを聴く
身体の声を聴く
双方は通じるものなのでしょうか?
相手を否定も肯定もせず、ただ『聴く』。
とても奥深く、難しいように感じます。
そこにはどうしてもこちらの主観が入ってしまう。
ともすれば、こちらの意志を相手に押し付けてしまう。
それをせずに、『聴く』ことが出来て初めて、私達の求める関係性が出来るのかと
考えました。
みんみ様 コメント非常に勉強になりました。ありがとうございます。どうしても主観が入ってしまう。こちらの意志を相手に押し付けてしまう。この言葉いいですね。相手が話すことがわかっていると思って聞くと、結局自分の理解の中だけの理解なので、主観が入ってしまうのかもしれません。「本当にわからなくなりました。」 まさに、わからなくなった。と思えた所から、本当の意味での相互理解が始まる出発点なのかもしれません。貴重な気づきありがとうございます。
今日、ちょうど私の至らぬ部分で反省し、これからは「傾聴」しなければならないと考えていたところでした。
しかし、私は、加藤先生のメッセージを読むまでは、この「傾聴」という言葉の意味をあいまいにしか、いえ、誤ってしか、とらえていなかったことに気づかされました。
そう、まさに私に足りなかったことは、
【目、耳、心を 「閉じて」 聴く】
ということです。
このことに気づかせていただけた今日は、本当に素晴らしい、私にとって転換となる日ともいえます。本当にありがとうございます。
素晴らしい気づきを本当にありがとうございました。心よりお礼を申し上げます。
若松宏幸様 いつもお世話になっております。若松さんにとって有益な情報になって非常に嬉しいです。いつも私のブログのデザインを検討していただき、伝えやすさを追求していただきありがとうございます。
意識して、一生懸命聴こうとしている時よりも、自分の心がフラットな状態の時に不意打ちをくらったように話をされた時の方が、その人の話の内容の裏にある感情が感じられる時があります。
そして、特に返答をしなくても、話をしてきた人が自分の心ともう一度、向き合ってくれるような気がしています。
本人が自分の身体・心の声を聴き続ける。その手助けになるような「話の聴き方」ができるようになれたら良いですね。
話しを聴くというのは、自分が思っていることをまっさらにして、相手の身振り手振りも情報のひとつとして、捉えていくと、授業で習いました。相手の話しを聴くにも、自分が聴ける状況なのか、というのも大切だと思っています。
傾聴することは、相手の話しを自分の意見を言うことなく聴くことに徹することだと思うのですが、ついつい何か言いたくなってしまいます。自分自身の気持ちが不安定な時は、人の話しが入りにくいこともあるので、雑念を取り払い集中できるようになりたいです。
傾聴することは、人の話しを自分の意見を言うことなく聴くことに徹することだと思うのですが、ついつい何か言いたくなってしまいます。
自分自身の気持ちが不安定な時は話しが入りにくいことがあり、雑念を取り払い集中できるにようなりたいと思うのですが、なかなか難しいです。
目を閉じて聴くという事は色んな情報に左右されず聴く事が出来るという状態だと思います。感覚を研ぎ澄ます作業と、無の境地と両方とも必要だと思いました。
源流様 ありがとうございます。両方の大切さ実感していただき感謝です。
目、耳、心を 「閉じて」 聴くということ、わかりそうで、わからないような、なんとも言えない感じです。
目や耳を閉じて聞くのは、わかる気がします。
見てしまうと、いろんな情報が入りすぎてしまうし、聞いてしまうと、あることないことすべて入ってきてしまう。
心を閉じてしまったら、どうやって聞くのだろうか。
心があると、これは嫌い、これは好き、などと主観が入ってくることにより、片寄った判断になってしまう。
だからこそ、心を閉じることにより、自分の意見も人の意見にも流されない、シンプルな答えが出てくる気がします。
もしかして、目、耳、心を 「閉じて」 聴くということは、無になること、と似た感じなのでしょうか。
どちらにしても、実践するのは、難しそうですが、静かなところに身を置いたとき、できそうな気がします。
たまには、目、耳、心を閉じて、自分の体の声を「聴く」時間を作れたらいいかな、と思います。